思索の旅路〜恐れの扉ともち〜

日々の感じたことや考えたことを綴っていきます。また、日々の書くということの取り組みの記録です。

文章筋トレについて

京都の友人である木下さんと大谷さんが主催する、文章筋トレに参加した。

詳細は、こちらを↓
https://marunekodoblog.blogspot.com/2019/01/blog-post.html

その名のごとく、文章の筋トレである。

ショート(10)、ショート(10)、ミドル(30分)と3回文章を書く。

それぞれ時間内で書いたものは、その場で印刷して参加者で読む。

そして読んでの感想を言い合う。

それを3セットやる。

初めてであったこともあって、とにかく書くということをした。

回を重ねるごとに、その場へ自分自身が調整されていく感じがある。

1回目は、ウォーミングアップな感じもあって、最初はそんなことを思いもしていなかったが、他の人の文章を読んで、感想を聞いていく中で、その実感を持った。

1回目よりも2回目、そして3回目とだんだんと、スイッチが入って、モードが変わっていく感じがある。

1ヶ月ごとの定点観測としての文章を書くということは、自分通信というものでやっているのだけど、同じ日に、間を入れずに3回と書くことを重ねていくと、また違った感じを持つ。

自分の書くということの特徴というか、癖なるものもはっきりとする部分もある。

何かその日に書くことを、自分自身のテーマを持って取り組んでみると、まさに書くことのトレーニングである。

気になっていて書いていなかったことを書くということもありだし、書いたことはないけど書いてみようという挑戦の機会と位置付けてみてもいい。

書くということを、いろいろと試してみるということによって、ひらかれていく視界というものがあるのだと思う。

今の自分というものにフォーカスを当ててみると、自分ということに関心を持っているけど、自分を含めたその場そのものへの関心というものがどこか薄い。

関心を持っていない訳ではないのだけど、相対的には高くはない。

自分というものにどこかで執着している。

そこから解き放たれていくこと、自分への関心を手放していくことは必要なのだと思う。

そうしていくことによって、これまでいはたどり着くことのできていなかったところへいくことができる。

どこかでそのような選択肢を、その手前の段階で、手にしようと思えばできるところにあっても、気づいていなかったり、そもそもそのことに触れないようにしているところがある。

こうして書いている以上は、自分の中で、自覚はある。

何事も、自分が一番わかっている。

逆に自分には見えていなくて、周りの方がよくわかっているという場合もあるが、自分の内側にあることというのは、外に何かしらの手段で表現していかない限りは、出ていきようがないことろがある。

少なくとも、そういう感じがするということであって、それが確かなことであるかどうかは、確かめてみないと確かなものではない。

自分が意図しなくても、雰囲気などから、漏れ出ていたり、伝わっているということもあるが、そうしたことでは確かめようのないことがある。

あとはやるかやらないか、向き合いたいか向き合いたくないか、割とはっきりとしていると思う。