自分の文章について
自分で書いているだけではわからない。書いた文章を読んでもらうことで初めて、気づかされることがある。
塊のような文章。摩擦。一本道。軸というか一本ある。
文章とは自分そのものである。書くということを通して、自分自身が表出する。
でも、書かれて自分の外に出た時点で、自分ではなくなる。別の存在として、生き始める。
そのように考えると、とても面白いことだと思う。
命を吹き込んだのは自分であるけれど、そこから新しく生き始める。
自分であって自分ではない存在。
そのように考えてみると、書かれた文章たちとの付き合い方も変わってくるのだと思う。
以前から思うのは、その時に書いた文章は、その時にしか書けないということである。それだけは確かなことである。ちょっとタイミングが違ったら、違った文章になりうる。
やわやかで軽快な文章。
自分の中にも、いろいろな表現があるのだとは思う。
でも、あるモードに入ると、その感じで書かれる。
その感じで書くということが、その時のモードでは一番しっくりときているということなのだと思う。意識していないけど、そのようにしか書けない。そういう感じもある。
もちろん意識すれば、そうではない文章を書くことはできるのだと思うけど、それはあくまでも小手先な感じもする。
中身というよりも、質的な部分よりも、表面的にあ、表層的な違いでしかない。
そんなことをやっても、それは長くは続かない。
継続できることは、自分の内側から溢れ出るものでないといけない。
そうでないと面白くない。自分がワクワクすることにこだわること。
考えすぎるよりも、感じろと自分に問いかける自分。
そのことをどこか客観的にみている自分がいることを感じている自分。
自分はいくらでも出現させることができる。どこかから言葉遊びになる。
そうなってしまっては、ちょっと違うことになってしまう。
筋トレをここ最近はできていなかった。正確には、時間という制限を自分に課した上で、書くということに取り組んでいなかったということである。
書くということ以上に、自分の中で取り組んだ方がいいと感じているのは、読むということである。
もっと読むということを楽しめるようになるといい。決して読むことが嫌いとかそういうことではないが、書くよりもどこかで時間がかかる感じがして、後回しになる。
実際にそうなのだと思う。自分自身の読むという行為は時間がかかる。急いでしまうとまた違うことになる。
自分に合ったかたちで、じっくりと取り組むことをしていけるのが何より一番である。
そのための時間をしっかりと自分につくっていくことである。いろいろなかたちで、書くということに取り組むこと。