思索の旅路〜恐れの扉ともち〜

日々の感じたことや考えたことを綴っていきます。また、日々の書くということの取り組みの記録です。

文章筋トレ1208ミドル

 眩しいと感じながらも、今日1日が終わるのだということを、どこか寂しい気持ちで感じている私。気持ちよく浮いているわけではなくそこにいる。漂いながらも、移り変わる景色を眺めている。移り変わる景色は、刻々と変わっていく。私自身も、眩しいと思いながらも、かたちも色も刻々と変わっていく。いつ消えてしまうかもわからない。そもそも存在しているのに、存在していない。そんなことをふと思うのだった。

 ある日の夕方に、道端を歩いていると、何かが転がっている。「なんだろう?」と思い、足を止める。よく見てもなんなのかわらないので、かがんで目を凝らしてみる。確かに何かであるが、それがなんなのかがわからない。手にとって眺めてみるが、得体のしれない物体だ。決して大きなものではなく、手のひらに乗っかる。ふわふらと軽いようなものではない。でも、ずしっと中身があるようなものでもないようだ。不気味な感じはしないのに、そのもの自体のことは注意深く見ても何であるのか、まったくもってわからない。周りに誰かいたら、その人にすかさず聞くことができるだが、見渡しても人っ子一人いない。でも、自分の中で、だからと言って不安や恐れを抱いているという訳でもない。いたって心の中は穏やかで、落ち着いてその場にいる。誰かに連絡を取ることできるのに、その時の自分は連絡を取るということを、その手段を一切、選択肢には入れていなかった。それほどの必要感もなかったのかもしれない。手に持ったまま、その場に立ち尽くし私。時間だけが過ぎていくのがわかる。

 自分の中で完結すると、その場の感じも変わるのがわかる。その流れに抗って、続けるということもできる。だけど、そのまま変わらずに続けてもどこか違うという感じだけは自分の中にある。そのことだけは、自分にとって確かさとしてある。確かなものとして、確かさを感じている。

 ある日の金曜日。一体自分はどこに行きたいのか。行きたい場所なんてどこにもない。ただ思いついていないというわけではない。そもそも考えて行くようなものでもない。考えるということではなく、行きたいから行くのである。そこには理由は存在していない。ここでいう理由は、他者を説得したり、他者が納得するような客観性の伴った理由である。論理的だとかそうではないとか、そういうことを言いたいのではない。だけど、自分の中での納得感。確かさがある。自分にある確かさを、他者と共有する時には、そこには大きな隔たりがある。大きな壁が存在していて、自分の思いを言葉にして、その思いをそのままに伝えるという作業は、非常に難しい。できないということではなく、大きな壁を超えて、その先へ行くためには、それ相応の強度がないといけない。その必要がある。どんなことにも耐えうる強度を持っていないと、すぐに軸が揺らぎ、変質してしまう。

 手加減をする。誰に対してするのか。やっている主体は誰か。どういう時に、手加減をするのか。その時の自分の感じはどうか。爽快な感じがするのか。気持ちがいいのか。気分はどうか。どれもこれもいい感じはしないということだけは確かである。そもそも手加減なんてものをいつするのか。そんなことをしていい場合があるのか。どこか何かに妥協して、自分自身に対して、手加減をしてしまうこと。手を抜いて、ほどほどに止まること。一体誰なのか。正体を突き詰めたいわけではないけど、そのままでいいとは思っていない。明らかにして、晒したいと思っているわけではないが、事実として認めて、次に進むこと。それがないと始まらない。そのことだけは確かなのではないだろうか。

 夕暮れに照らされた私は、これからどこに行くのか。何を描いていくのか。すでに今描いている。何を描いているのか、自分にはわからない。他者の誰かが見つけてくれて、あとから見ることはできるかもれない。でも、自分が見るわけではない。自分が見られるということはあっても、見ることはない。それでいいのだ。今この瞬間に、存在を際立たせて存在すること。